目の前にある線を、みんなの見てる前で越えていくという作業。やりきれないつもりはなくて、むしろやりきっているんだけど、それはただジブンの中だけでやりきってきたただけだと気づいたときに、初めて周りを意識して”成長”する。成長した自分に酔う、酔いしれる。そうしてるうちにまたジブンしか見えなくなってきて、周りを意識しなくなる。
多分、”やりきる”だとか”やりきれない”だとかこんな読みにくい言いまわしはどーでもいいんだ。結局この悩みは一生付きまとってきて、さんざん繰り返されて、また同じ位置にジブンが戻ってきたと錯覚することになるんだから。だけど同じ悩みの答えはなぜか毎回違い、やっと新しい答えを見つけても、それはいつか通用しなくなる。そのうちジブンの立ち位置が分からなくなってくる。
「そんなもんだよ」と何十年も前から同じことをやってるヒトに言われ、「そんなもんかなぁ」と最近だんだんわかるようになってきた。
何回も押してきた母音は、エンターキーのように鮮明に、明確に。まだ今までとの違いを見出すことは出来ないけど、押し込んだキーボードから指を離す瞬間に、だんだんと目線をあげられるようになってきた。
ジブンの成果を知るには目標物を置かないと意味が無い。ただ、今のジブンを知らないってことは意味すら残せないってことだよ。そりゃそうだ。他人の評価を持つよりも、どんな理由でもいいからまずジブンを納得させてやるべき。”ジブン ダイスキ”にならなけりゃ。
さんざん悩んで絞り出した答えは、案外近くに転がってる石ころみたいなもの。そんなもんだよ。
コメント
うん、そんなもんだね。
…似てんなぁ、考えてることの種類が。
それに対して出す結論も似てるみたい。ま、ほんとのとこはどうかはわからんけどね、お互いに。
君のブログ読むといつもそう思う。
何でなんだろね?
あれ、匿名になってる。
ごめん、最初のコメントみどりです。
>>みどり さん
どんな考え方をしていようが、観ているヒトに届かなければ、意味がない。
でも、お客からすれば”良い”か”悪い”かの2択で判断されるわけで、少しでもそれを意識していれば価値観は違っても目指すところはぶれないんでしょうね。いちおう。
ニュートンより先にりんごが落ちてるのを見た人はいっぱいいるんですよね、きっと。
僕らのやってることは”そんなもん”ですからね。
まぁ、ホントのとこはどうかはわかりません、僕も。