現在、論理としては存在していても、人間にはタイムマシンがないですよね。もちろん「過去に戻る」ということは物理的にも技術的にも不可能ということがほぼ確定しているわけですし。だから「やっぱりあの時に戻って、失敗を帳消しにしたい!」なんてどれだけ強く願っても、残念ながら叶わないわけです。
これは、物理法則が僕らに与えた、なかなか手強いルールです。
でも一方で、人間には魔法の力があるんですよね。
それが「解釈」という、ちょっと地味で哲学的な魔法です。
過去の事実は動かせなくても、それをどう捉えるかは変えられます。
たとえば、「失恋した」という過去は変更不能ですが、それを「自分を成長させるいい経験だった」と再解釈することは可能です。脳神経科学的にも、僕らの脳は新しい体験や学習を通じて常に「アップデート」可能な柔軟性を持っていますし、言語や社会のルール自体が日々新しく書き換えられているわけです。
この「編集不能な過去」と「書き換え可能な解釈」の二項が共存するおかげで、僕ら人間は持続的な緊張感の中にいるわけです。実は、このテンションこそが面白いところで、人間はそれを利用して色々なことをやっています。
歴史学者は変えられない事実をもとに、新しい視点や解釈で過去を語り直しますし、心理療法家は患者のつらい過去を「再物語化」することで癒やしを提供するわけです。技術として。
政治家だって、この微妙なギャップを使って、過去を都合よく解釈し直すし、時には自身や周囲の記憶の操作まで試みるわけです。ある国では侵略行為を「解放」と表現し直したり、あるいは悲劇的な出来事を国威発揚の物語として再解釈したりしてね。
使い方によっては賛否ありますが、僕はこうしたギャップがあるおかげで、人間は常に「自由」の可能性を模索できるのだと思っております。
言い換えれば、自由というものは、過去という固い地面の上に立っているからこそ意味があるわけです。
つまり、自由とはなんでも好き勝手にできるという意味ではなくて、変更不能な「事実」のおかげで初めて意味が生まれる、という逆説的な構造を持っているといえます。
だからこそ、過去を変えようと焦るより、解釈をどう更新するかを考えるほうがずっと創造的で生産的です。
編集できない過去を嘆くより、その過去に意味を与えることで自由を探し、創るほうがずっといい、と。
人生の編集権は、自分の手の中にあるわけですからね。
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