自分の理屈で正義を語るのはいいけど、それが世界の理だと押し付けるのはとっても危うく、傲慢。
そもそも世界は単一の理屈で動いているわけがないし、複数の価値基準がせめぎ合いながら均衡しているわけで、己の正義や尺度を絶対、普遍と宣言した瞬間に対話は閉ざされ、残る択は排斥と衝突だけになる。
その正義はもはや暴力ともなり、語る者自身を「悪」と呼びうる存在にすら変えてしまう。
…ということを「自分が絶対の正義側」だと思い込みながら貫き通してくるわけだから、これは危うい。
そういう人が「自分は困っていない」ことを理由に他者のコスト増やリスク増を顧みない主張を推し進め、結果全体の生産性を押し下げるという負のスパイラルを実現してしまうという事が多々ある。
このような異論を許さない環境では、疑問や批判は地下水脈のように溜まり続け、やがて思いもよらぬ亀裂を生むことになる。
なので、正しさを声高に唱えるより、誤りを受け入れる余白を確保するほうが、長い目で見れば秩序を持続させることができる。
つまり、真に世界を整えたいなら、自分の正義を主張する前に、他者の正義が存在しうる余地を確認するという、そのプロセスこそが必要。
一言でいうと、「余裕と柔軟さを持て」と。
それで驚くほど潤滑になることがある。
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