誤解と理解は表裏一体

日記
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僕は普段から「あ、わかった!」という瞬間ほど怪しむようにしております。
なぜって、それが「誤解」の始まりかもしれないからです。
誤解と理解は表裏一体」という言葉がありますが、まさにそれはメビウスの帯のよう。表だと思って進んでいたら、いつの間にか裏面に入っていて、しかも境目は存在しないグラデーション――そんな不思議な関係なんです。

ちょっと哲学的に言えば、私たちは常に「前提」を抱えて世界を眺めています。だからこそ、新しい経験をする時、必ず予想や願望が混ざり込みます。これは誤解の「種」であり、同時に理解への「土壌」でもあります。
誤解を修正するために再び考え直すこと。これこそが理解が深まるプロセスだと考えます。

脳科学の視点からも、似たようなことが言えます。脳は「予測」と「現実との差異 (誤差)」で動いています。もし差異がなければ、脳は学習を止めてしまう。つまり、誤解 (差異)がちょっとあることが、生き物としての成長を促しているというわけです。なんだか皮肉ですが、完璧な理解なんて存在しない方が健康的とも言えるんです。

そして日常のコミュニケーションでも、完全な理解を追求するとむしろ失敗しやすくなります。言葉のノイズや誤解を前提に、僕たちは情報を「ちょっと余分に」伝える習慣を持っているんですよね。だって、誤解を排除するより、誤解がある前提で話した方が遥かにスムーズに伝わるんですから。

文化や言語に目を向けると、誤解があるおかげで世界が広がることにも気づけます。
例えば外国語の翻訳でどうしても伝わりにくいニュアンスやスラングってありますよね。しかし、それがかえって、その文化特有の価値観や美学を教えてくれるわけです。そういう意味では誤解や規定外のノイズやバグは、その相手をより理解するための重要なヒントをくれる境界線とも考えられるわけなんですよ。

じゃあ、日常ではどうすればいいの?という実践的な話をしましょう。
僕は演技指導や演出などで、人に何かを伝える場面が日々あるんですが、こういった教育や対話の場面では「わかるまで説明」するより、「誤解がどこにあるか」を一緒に探す方が効果的だったりします。交渉でも、お互いのズレをむしろ見せ合って話を進める方が、共通点を見つけやすくなります。
創作でも、あえて曖昧さや余白を残すことで、観客に自由な解釈を楽しんでもらうという選択肢もあります。

結局のところ、誤解を排除しようと躍起になるより、むしろ誤解を受け入れ、時には楽しんでしまった方がいいんじゃね?という考え方で、誤解と理解の間を自由に行き来する柔軟さを持つことも大事だよね、の精神を心がけているよというお話です。

日記
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俳優活動をしています。
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