最近ふと、AIが出力した「理想的な休日」のスケジュールを目にしたんですよ。
朝6時に起きて、瞑想して、白湯飲んで、ヨガして、サラダ食べて…
そのあともまあ、効率的に仕事して、午後は創作活動に集中して、夜はお風呂に浸かって読書して、10時には就寝。
――うん。
それ、たぶん正しいし、健康的だし、素晴らしいと思う。
けど、なんか…無駄のない最適解って、どちらかというとかなり好きな思考なんだけど…そこに「自分」がいる気がしない。
違和感がすごい。噛み合わないチャックみたいな気持ち悪さすらある。
たとえば、僕の「休日」はこんな感じだ。
寝起きはギリギリ、スマホのアラームをわざと3回設定して3回目でようやく体を起こし、冷蔵庫にある昨日買った缶コーヒーとプロテインバーを食べながら作業の進捗確認。
午前中は作業ファイルを開いて眺めてすぐ閉じる。昼はコンビニ。午後になってようやくエンジンがかかってきたかと思えば、急に掃除がしたくなって現実逃避。
夜はYouTube見ながらうたた寝、起きたら1時。「あっ…」って言いながら歯を磨く。
誰にもすすめられない。が、これが僕にとっての「普通」だ。
テクノロジーは、整ったものを好み、最適化された日々を“正解”として提示してくる。
でも、人間の行動ってそんなにスムーズに流れない。
むしろ、降って湧いた突発的なタスクや思いつきやムダこそが日々を面白くしてる (気がする)。
ちょっと間違えたり、寝坊したり、予定を忘れたり。
そういう“ほころび”があるからこそ、人間らしいし、他人のことを「面白い」と思える。
便利さや効率性は、もちろんありがたい。大好き。突き詰めたい。
でも、「それだけ」が日常の全てになるのは、ちょっと違う。
というかただただ窮屈なだけじゃないですか。
「朝6時に白湯を飲めば人生が変わる」みたいな言葉をよく見かけますし、実践している人もいて、効果もあるのかもしれません。
でも、それが“正解”っぽく見えすぎると、なぜかそれをやっていない自分が、ちょっとダメな人に思えてくるんですよね。
白湯ひとつで、自己肯定感が下がるって…なかなかすごい影響力です。笑
もちろん、朝6時に起きて健康的な1日を過ごせるなら、それに越したことはないと思います。
それに憧れもあるし、できたらちょっと誇らしい気持ちにもなるかもしれません。
でも、全部が理想通りじゃない毎日にも、意外といいところってあるんですよね。
午後から急に掃除を始めたり、締切直前に変な集中力が湧いてきたり、YouTube見ながら寝落ちしたり。
そういう「予定外」の瞬間があるからこそ、1日がちょっとだけ面白くなる気がします。
テクノロジーで描かれる未来に、ちょっとだけ“わがまま”を持ち込んでみる、という、その意外性こそが、きっと自分の輪郭を残すんだと思う。
朝6時の白湯が世界の正義なら、それはそれでいいんです。
でも、12時起きの缶コーヒーにも、ちゃんと存在価値はあります。
どっちが正しいかじゃなくて、どっちが「自分にフィットしてるか」。
あえて「ちょっとムダ」な時間を持ったり、「どうでもいいこと」にこだわったりする。
その“非効率さ”の中に、自分らしさってあるんじゃないかなと僕は思います。
理想に届かない日があっても、ちょっと笑える出来事がひとつあれば、それで十分。
そんな日も、胸を張って「いい一日だった」と言っていいんじゃないかな、と思いながらYouTubeのショート動画を見続けてしまう自分を肯定する毎日です。
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