法的勝敗と社会的評価はなぜ一致しないのか

ミルフィーユをハンバーグにしてはいけない 日記・考えごと

どうやら世間の皆様は、裁判というものを「真実の総体を丸呑みして、善悪を判定する魔法の装置」だと、かなり本気で信じている節がある。
しかし現実の法廷は、そんなロマンチックな場所ではない。
そこにあるのは、複雑に絡み合った事象を「法律要件」という無機質な枠に分解し、「証拠」というピンセットで拾えたものだけを淡々と判定する、極めてドライな仕分け機だ。

SNSなどで起きている世間の混乱の根源はわりと単純で、
「何があったのか (事実認定)」
「何が証明できたのか (法的立証)」
「それをどう評価するのか (社会的評価)」
という、本来なら三層に分かれているべきミルフィーユを、親の仇みたいにぐちゃぐちゃに潰して、大味なハンバーグとして食おうとしていることにある。

でも、この3つは別物だ。
社会は事件をひとつの物語として見る。
誰が、誰に、どういう立場で、何をしたのか。
そこにどんな権力差があり、どんな不当さがあったのか。
全体像を欲しがる。

一方で裁判所は、その物語を丸ごと扱わない。
要件事実に分解し、その一片一片について、証拠で拾えるかどうかだけを見る。
だから裁判結果は、社会が期待する「全体の答え」にはならない。

とくに性被害事案では、このズレが露骨に出る。
密室性が高い。申告は遅れやすい。証拠は乏しくなりやすい。
その結果、かなり真実らしく見える事案ですら、法的には立証困難が起こる。

さらに時効が入れば、倫理的には十分に非難できる行為でも、法的請求可能性はそこで切断される。
和解が入れば、紛争は終わっても、事実認定は薄くなる。
すると、その空白を当事者や世論が、それぞれの物語で好き勝手に埋め始める。

それでも組織や社会は止まらない。
なぜなら彼らは、違法性だけで人を測っていないからだ。
関係性、権力差、人格尊重、安全性、信頼。
そういう別の物差しで人を見る。

だから、法廷という仕分け機が100点満点の証拠を拾えなかったとしても、
「権力勾配のある密室で、そのような振る舞いに出る所業自体が許されない」
と組織が判断し、その人物から距離を置くことは普通に起こる。
それは法を軽視しているのではない。
単に、組織ガバナンスという別のモノサシで測った結果にすぎない。

要するに、
「法的勝敗」と「社会的勝敗」はズレる。
しかもそれは事故ではない。
ミルフィーユのパイ生地がポロポロこぼれるのと同じで、構造上かなり避けがたい。

だから、身も蓋もない結論を言えば、
法的勝敗と社会的評価のズレを、ひとつのきれいな答えに統合しようとするのは、もう諦めたほうがいい。

僕らは、バグだらけの「社会」というクソゲーをプレイしている。
個人も企業も、
「法的なダメージコントロール (弁護士の仕事)」と、
「評価経済におけるキャラクター維持 (PRやガバナンスの仕事)」を、
別ルールのゲームとして同時に進めるしかない。

世間には「法的に勝ったから白です」は通じない。
逆に、「法で裁けないなら社会的私刑で殺せ」という暴走も消えない。
その両方の理不尽さを、まず理不尽なものとして見ておくこと。

そして「そういうもんか」と少し冷めた目で、手札を切っていくこと。
たぶんそれが、この種の事件を読むときに持つべき最低限の態度なのだと思う。

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