AIは納豆を食えるか?

AIはアインシュタインになれるかの実験 (相対性理論前までの知識で相対性理論にたどり着けるのか)があって、惜しかったものの、やはりAIには合理的には説明できない行動や思考からのイノベーションは難しいようだ。

思いつきのような、今ある知識では想像できない可能性を探る行動は人間に残された分野なのではないのだろうか?

初めて納豆やフグを食べた人間やペニシリンの発見のような、偶然、試行錯誤、発想の転換、好奇心や試行錯誤の末のセレンディピティはAIには技術的に成し得ないのではないだろうか?

人類の発展とは、正しい答えを見つけてきた歴史であると同時に、何が問題で、何に価値があるのかという定義自体を変えてきた歴史でもある。
ほかの人が価値を認識していないところに、価値が存在する可能性を見つけてきた。

つまり、

AIは納豆を食えるか?

ということ。

別に「人間にしかできないはずだ」、という方向性に執着したいわけではなく、どちらかと言えば個人的にはこの話題をとても「面白い」と思っている。
完璧に合理性を突き詰めてできたシステム。それが皮肉にも創造性の逸脱を許さなくなっている構造に、非常に興味深いと感じているのだ。

まだ価値を説明できないものに、どれだけ時間と資源を与えられるか。その配分を、何によって決めるのか。

この意味での「AIは納豆を食えるか?」は、食べる能力だけを問う言葉ではなくなってくるわけですよ。

「食べる理由をまだ説明できない段階で、その豆との関わりを続けられる仕組みになっているか」を問う言葉になる。

まだ食べ物だと知らない、変なにおいで糸を引く豆。それを口にする理由を、AIは食べる前に説明できるのだろうか。

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