役者 (表現者)をやっているということは他者に見られ評価されるということでもありまして。
それは極端に言えば、作り手側の思惑がどうあろうが「お客様の前に提示され、感じていただいたものがすべて」でもあるということでして。
そこが面白くもあり、同時に恐ろしくもあるのですが、僕ら役者は自分のお客様にお見せする商品を作っている以上その「責任」を軽んじてはいけないと思うわけなのですよ。
それが俳優としてのブランディングでもあり、一番大切なお客様との信頼関係でもありますので。
間違っても消化試合になんてしてはいけないと思っていますし、1回1回の本番に入魂している役者や「命かけてます」と発言する役者は比喩ではなく、文字通り約2時間のドラマに命を削っているわけです。
このような表現の仕事は納品物 (演技)が数値化できるものはないので、作品規模や経歴や認知度に関係なくどこまでも突き詰めることもできます (逆もですが)。
一方で、お客様からの評価や集客という相対的にフラットな指標も生まれます。そういう意味では、同じ仕事 (作品)でも「きっちり演る」ということの難しさがここにあります。
もがいて足掻いて、合理性を度外視したコストを割く役者がいるのも事実です (良くも悪くもですが、個人的には消耗の美学を美徳化しすぎると、再現性が落ちるのでクソくらえだと思っています)。
いやらしいまとめ方をすれば、表現者は自分の内側の誠実さだけではなく、外側に届いた結果によって信頼を積む残酷な職業でもあるといえます。
それでは、役者にとって“責任を果たした演技”とは具体的に何を満たした状態なのでしょうか?
これについてずっと考えを巡らせているわけです。


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