SNSはなぜ「戦争反対」ですら殴り合いに変えるのか

SNSはなぜ対立させますね、という見出し画像 日記・考えごと

「戦争反対」。実に立派な言葉である。これに異を唱える者は、よほどの奇人変人か、あるいは戦闘を生き甲斐とする戦闘民族くらいのものだろう。「犯罪反対」と叫ぶのと同じくらい、人類の普遍的な真理として当たり前に鎮座している。それなのに、現代のコロッセオことSNSでは、この至極真っ当なスローガンを巡って、血みどろの殴り合いが展開されている。

少しばかり引きの視点で観察してみると、どうやら彼らは全く別の言語を話し、全く別の土俵で相撲を取っているらしい。一方は純粋な平和への祈りを捧げているつもりなのだが、もう一方はそれを「憲法改正や防衛力強化への反対運動」という裏の文脈で受信し、反射的に噛み付いている。「戦争反対」という主語が大きすぎるあまり、背景にある複雑な議論が見事に混線しているのだ。キャッチボールの誘いに対して、全力のドッジボールで相手の顔面を狙いにいくような所業である。
地獄以外のなにものでもない。

さらに厄介なのは、この「戦争反対」という無敵の盾が、時として特定陣営のポジショントークとして機能してしまっている点だ。遠い異国の人権侵害や理不尽な弾圧には見事なまでに沈黙を貫きながら、自分たちの都合の良い時だけこの普遍的倫理を引っ張り出してくる。「自分の陣営の都合だけを普遍倫理として売るな」という、反発する側の根深い苛立ちも、まあ分からないでもない。

本来、議論というものは論点ごとに丁寧に解剖し、切り分けて行われるべきである。しかし、この魔境においては、相手の言葉を3行以上読まずに文脈ごと切り捨て、所属陣営の記号として消費することを生業とする輩がばっこしている。雑な二元論と抽象的なスローガンを振りかざし、自分を道徳的上位に置こうとする一部の人々の態度は、控えめに言って愚行の極みである。

ただ、ここで少し胸が痛むのは、純粋な人道主義や、ただの理想で発言しただけの善良な人々までが、この陣営争いの流れ弾を被り、「政治的なポジショントークだ」と袋叩きにされていることだ。右も左もわからないまま重武装の戦場に放り出された丸腰の村人のようなものであまりにも不憫である。こわい。

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