優しい共犯者と、焼畑農業としての演劇

舞台のスポットライトを浴びる一人の人物 日記・考えごと

僕の友人から聞いたゾッとした話。
梅雨の湿気がまだ纏わりつくような、不快指数が絶妙に高い昼下がりのことだ。
僕の友人は知人が出演するとある小劇場演劇を観に行ったらしい。

地下へと続く階段を降りるにつれ、カビと情熱が入り混じった特有の匂いが鼻をつく。座席を見渡せば、客層は一目瞭然だ。役者の友人、劇団の元同僚、親戚、あるいはバイト先の店長。いわゆる「関係者」と呼ばれる人々が、客席の八割、いや九割を占拠している。彼らは観客というよりは、一種の「年貢」を納めに来た納税者に見えると友人は言う (自分も含め)。

幕が開き、そして閉じる。
肝心の中身について触れるのは野暮というものだろう。ただ、その友人の隣で観ていた青年が、終演後にロビーで出演者の肩を抱き、「マジで最高だった! 今までで一番泣いたわ!」と叫んでいたことだけは記しておく。青年の目は、微塵も濡れていなかった、と。

僕が恐怖するのは、この「優しい嘘」の連鎖ではない。社会生活を営む上で、友人の愚行を笑顔で称えるのは一種のマナーでもあり、処世術だ。
問題なのは、その儀礼的な拍手と、SNSに溢れかえる「絶賛」の文字を、主催団体が「額面通り」に受け取ってしまっているという、その一点に尽きる。

彼らは正気なのだろうか。

「知り合いしか来ない」ということは、裏を返せば「団体 (作品)のファンがいない」ということだ。だが、SNSを開けば「面白かった」「涙腺崩壊」の文字が踊る。もちろんすべてではないが、今回の場合ほとんどは評価ではない。友情の証だ。しかし、この甘美な麻薬に浸った団体は、自分たちが「傑作を生み出した」と錯覚する。
そして、ここからが実に興味深い、あるいは戦慄すべき構造なのだが、演劇界において生き残るのは「面白い団体」ではない。「資金力のある団体」だ。

資金があれば、劇場を押さえられる。劇場を押さえれば、次は「プロデュース公演」という名目で、新鮮なキャストを外部から調達する。
するとどうなるか。作品そのものの質がどれほど目も当てられない惨状であっても、新たなキャストが新たな「知り合い (=チケット)」を連れてくるのだ。

これはもはや、文化活動というよりは「焼畑農業」に近い。
土地 (客席)が痩せれば、また次の場所 (キャスト)へ移動し、火を放ち、収穫を得る。後に残されるのは、動員を強いられ、面白くもない作品に出演したことで自身のファン (という名の信頼残高)を目減りさせた役者と、二度と劇場には足を運ばないであろう僕の友人のような観客の死屍累々である。
団体だけが、無傷で次の畑を探しに行く。なんと合理標的で、残酷なエコシステムだろう。

本来であれば、客席からの「沈黙」や「辛辣な批判」こそが、その土地を耕す肥料になるはずだ。しかし、現代のSNSという拡声器は、ノイズキャンセリング機能があまりに優秀すぎて、心地よい称賛以外の声を遮断してしまう。

終演後、僕の友人は手元のアンケート用紙を眺め、「感想をご自由にお書きください」という欄が広大な空白として鎮座しているのを確認し、「満席の舞台を観に行った。すごかった」とSNSにポストして、アンケート用紙を白紙のまま回収箱へと放り込んだとのこと。

まあ、これが僕らの日常であり、彼らの日常なのだ。
そんな話をしながら、梅雨の湿気とは打って変わって寒気を感じたのは、今が冬だからではない。

コメント

ちょっと、寄り道。

昔の文章から、今日の一篇。

日記・考えごと

CM

もう一篇、見つける