ある舞台作品で、本番を目前にした俳優が降板したことがXで話題になっている。
制作側からは当初、本人から降板の申し出があり、話し合いの結果、出演を見合わせることになったという趣旨の発表がされた。
その翌日、俳優本人が複数ページにわたる文書を公開し、降板に至るまでの経緯を説明した。
本人の説明によれば、直接的な大きなきっかけとなったのはファンクラブ向けに用意されたチケットの扱いと、それについて改善を求めた際の対応だったという。
しかし、それだけが理由ではない。
それ以前から、降板を示唆するような発言が複数回あったこと。
券売数と本人の立場を結びつけるような趣旨の発言があったこと。
出演契約書が稽古開始前に提示されていなかったこと。
自身だけ歌唱指導の予定が組まれていなかったこと。
役として必要な準備が整っていない状態で撮影が行われたこと。
さらに、過去に同じ関係者が携わった別公演で本番中に負傷した際、治療費は負担されたものの、事故を想定した保険等には加入していなかったという説明を受けたことなども記されていた。
一方で、現時点では、これらの多くはあくまで俳優本人側から示された説明であり、そのすべてについて制作側から個別の事実関係や反論が公表されているわけではない。
制作側もその後、一部の不備について認め、本人やファンへの配慮が足りなかったことについて謝罪し、対話を続けていくという趣旨の発表をしている。
なので、まず最初に書いておきたい。
ボクはこの件について、現時点で「どちらが完全に正しくて、どちらが完全に悪い」と判定するつもりはない。
双方の話が完全にクリアに出そろっているわけではない以上、外側にいる人間が断片的な情報だけで善悪を確定するのは雑すぎると思っている。
なぜ最初に関係がこじれたのか。
制作側から見ればどんな経緯があったのか。
まだ分からない部分はいくつもある。
だから、事実として確認できることと、一方から語られている主張は分けて考えたい。
その上で。
今回公開された文章を読んで、どうしても無視できないものがある。
それは、本番直前の作品に出演する一人の俳優が、ここまで具体的に声を上げることが、どれほどのリスクを伴うのかということだ。
舞台の世界で仕事をしている人間なら分かると思う。
本番直前に制作側との問題を公にする。
しかも、自分が出演するはずだった作品について、制作過程や関係者とのやり取りまで含めて具体的な経緯を発信する。
そんなことをして「何も失わない」なんてあり得ない。
今後その制作から仕事が来なくなるかもしれない。
別の現場から「扱いづらい役者」「面倒な役者」と見られるかもしれない。
関係者との人間関係も変わるかもしれない。
観客からですら、
「本番直前に言う必要があったのか」
「作品に迷惑をかけている」
と批判される可能性がある。
演劇という決して広くはない世界の中で、その影響がどこまで広がるのか本人に想像できないはずがない。
そのくらいのことは、この業界で仕事をしている俳優なら十二分に理解しているはずだ。
だからボクは、書かれている内容のすべてが事実であると断定することとは別に、ここまで声を上げることを選択した、その覚悟そのものは理解できる。
と思っている。
むしろ、そこを軽く扱いたくない。
そして今回、個人的に最も引っかかったのが「券売」と「発言できる立場」を結びつけるような話だった。
もちろん、舞台に券売は必要だ。
これは綺麗事ではどうにもならない。
ボク自身、俳優として出演もするし、演出もするし、制作側として公演を作ることもある。
100席の劇場で100枚売れる俳優と、5枚しか売れない俳優がいたら、興行を作る側がその数字をまったく気にしないなんてことはあり得ない。
次に誰をキャスティングするのか。
どの規模の劇場で公演するのか。
どれだけ宣伝費を使えるのか。
現実の興行には全部お金が絡む。
だから「集客力を評価すること」自体は悪ではない。
むしろプロとして活動している以上、一つの評価軸になることは当然だと思っている。
しかし、それと発言する権利は、まったく別だ。
ここを一緒にした瞬間に、おかしくなる。
100枚売る俳優には安全について発言する権利があって、5枚の俳優にはないのか。
そんなわけがない。
100枚売る俳優なら契約内容に疑問を言えて、5枚なら黙っていなければならないのか。
100枚売る俳優なら危険な演出に「危ない」と言えて、5枚なら従うしかないのか。
100枚売る俳優のファンには誠実に対応する必要があって、5枚しか売らない俳優のファンなら雑に扱っていいのか。
違うでしょう。
券売は、興行上の価値を測る指標の一つではある。
でも、人間としてどこまで尊重されるかを決める価値指標ではない。
ここを履き違えたら、かなり危険だと思う。
そして、この「立場が弱い側の当然の権利が、パワーバランスの中で少しずつ軽く扱われていく感覚」については、ボク自身にも思うところがある。
本来であれば守られるべき権利がある。
明確なルールもある。
なのに、立場が強い側から、
「この業界では普通だから」
「昔からみんなそうしているから」
「そこまで言う人はいないから」
「嫌ならやらなければいい」
みたいな空気によって、いつの間にか権利を主張する側が「面倒な人」にされていく。
ボク自身、そういうパワーバランスの中で、本来守られるべきものが安易に、そして軽率に扱われていくことへの憤りを感じた経験がある。
だから、この問題には少し強く反応してしまう。
そもそも演劇なんて、ものすごく特殊な仕事だ。
作品が変わるたびに、初めましてのプロデューサー、初めましての演出家、初めましての俳優、初めましての制作、初めましてのスタッフ。
そんな人間たちが大量に集まって、数週間後には一つの作品を作り上げなければならない。
会社なら何年もかけて作られる人間関係を、演劇では数日で作る。
だからこそ、
「うちではこれが普通です」
なんて理屈は、本来ものすごく危険なんですよ。
あなたの「普通」は、昨日初めて会った人にとって普通ではない。
制作団体ごとに常識は違う。
俳優側の常識と、制作側の常識も違う。
芸能事務所と劇団と商業演劇でも文化は違う。
そんな環境だからこそ、
「文化や意識が違いました」で済ませてはいけない。
そこをつなぐために明文化された契約があり、安全基準があり、そしてもっと根本には法律がある。
「不文律」なんてものは、同じコミュニティの中で長期間共有されて初めて機能する。
毎公演、初対面の人間が入り乱れる舞台業界で、不文律をルールの代わりにすること自体にかなり無理がある。
にもかかわらず、
「この業界ではこうだから」という曖昧な物差しを持ち出して、明確に存在している基準を一方的に無視する。
そして問題が起きる。
誰かが傷つく。
その人が現場を離れる。
別の人間が入る。
公演は続く。
また次の公演が始まる。
これを繰り返して、
「公演は無事終了しました」
で終わらせる。
それがもし常態化しているなら、そんなものはただの都合のいい消化試合だと思っている。
作品が幕を開けたことと、その制作過程が健全だったことは別問題だ。
本番が成立したから全部OKではない。
拍手をもらったから問題が消えるわけでもない。
そして何より、
誰か一人が我慢したから成立した作品。
誰か一人が声を上げなかったから成立した現場。
誰か一人が泣き寝入りしたから予定通り幕を開けられた公演。
そんなものを、
「みんなで力を合わせて作りました」
という美談に変換するのは、ボクは1ミリも肯定できない。
演劇は確かに人間の情熱でできている。
出演者やスタッフの善意にも、信頼関係にも支えられている。
でも。
善意は労働条件の代用品ではないし、情熱は安全管理の代用品ではない。
「作品のため」という言葉も同じだ。
その言葉によって誰か一人にだけ我慢を要求し始めた時点で、それはもう美しい自己犠牲ではなく、ただの構造的な押しつけになる。
今回の件について、今後制作側から具体的な説明が出れば、印象が変わる部分もあるかもしれない。
俳優側についても、まだ見えていない事情がある可能性は十分にある。
だから個人の善悪については、今の段階で結論は出ないし、出したくない。
そして、これは特定の一人や一つの団体だけを吊し上げたい話でもない。
むしろ個人的には、そこだけの話題として消費してしまう問題ではないと感じている。
今回表に出てきたものは、程度の差こそあれ、この業界のいろいろな場所で起こり得る問題だからだ。
立場の強い人間と弱い人間で、安全に対する権利は変わるのか。
契約について確認する権利は変わるのか。
尊重される度合いは変わるのか。
答えは全部変わらないはずだ。
売れている人間ほど大事にされる。
これはビジネスとしてある程度仕方がない。
でも、
売れていない人間なら雑に扱っていい。
そこまで行ったら、まったく別の話だ。
100枚売る俳優と5枚売る俳優の「市場価値」は違うが、
安全に働く権利も、
契約について確認する権利も、
尊厳を守られる権利も同じだ。
そしてその最低ラインを守るために必要なのは、
誰かの優しさでも、プロデューサーの人格でも、業界の不文律でもない。
明確なルールだ。
それすら「うちは昔からこうだから」で無視するなら、何のためのルールなのか。
誰かの犠牲の上に成立するエンタメなんて存在して良いはずがないのである。
そんな当たり前のことを、わざわざ語らなければならないこと自体が、この業界の問題なのかもしれない。



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