自撮りドッペルゲンガー現象

いままでになかったような現象に名前をつけて言語化を試みる 日記・考えごと

僕のくだらない趣味の一つで、"いままでになかったような現象に名前をつけて言語化を試みる"という遊びをよくしているのだが、今回は特に持て余していた時間が多かったので、ある現象に名前をつけてみた。

「加工自己同一性揺らぎ」という現象について考えてみる。
少し硬い言葉だけど、これはかなり現代的な「自己像の分裂」だと思う。

アイドルやインフルエンサーに限らず、今やSNSに自撮りを上げるとき、加工アプリを使うことはほとんど当たり前になっている。

肌をなめらかにする。
目を少し大きくする。
輪郭を少し細くする。
鼻筋を整える。

一つひとつは、たぶん些細な補正だ。
けれど、その「少し」が積み重なった先に、現実の自分とは少し違う、でも明らかに自分ではある、もう一つの自己像が生まれる。
そして問題は、その加工済みの自己像のほうがSNS上では多くの人に見られ、褒められ、保存され、拡散されていくことだ。
つまり、未加工の自分よりも加工された自分のほうが社会的に承認されてしまう。

鏡の中の自分より、画面の中の自分のほうが「かわいい」と言われる。
現実の顔より、投稿された顔のほうが「本当の自分」として扱われる。
生身の自分より、加工済みの自分のほうが仕事や人気や評価につながっていく。

そうなると、加工はただの見栄えの調整ではなくなる。
SNS上に投稿される加工済みの自己像が、他者から承認される“本当の自分”として肥大化していく。そして、未加工の身体的自己とのあいだで、自己認識が少しずつ揺らいでいく。

これが「加工自己同一性揺らぎ」なのだと思う。

最初は、実物に近づけるための補正だったのかもしれない。

光が悪かったから。
肌の調子が悪かったから。
少し盛れた写真にしたかったから。

でもいつの間にか、加工は「現実の自分を整えるもの」ではなく、「理想の自分を維持するもの」になる。
さらに進むと、「他人が期待している自分から落ちないためのもの」になる。
ここで怖いのは、加工された自分が単なる嘘ではなくなってしまうことだ。

その顔でフォロワーが増える。
その顔で好意を向けられる。
その顔で仕事が来る。
その顔で価値を測られる。

社会的には、むしろその加工後の顔のほうが“実績のある自分”になっていく。
すると、生身の自分はだんだん遅れてくる。
鏡を見るたびに、何かが足りない気がする。
写真を撮るたびに、まず直す前提になる。
人に会うことが、少し怖くなる。

「私は本当はどちらの顔なのか」が、だんだん曖昧になっていく。
これは単なる自意識過剰でも、美意識の問題でもないと思う。

人間は、自分だけで自分を決めているわけではない。他人の視線、反応、言葉、評価によって、自分の輪郭を作っている。だからこそ、SNS上の加工された自分だけが強く肯定され続けると、その顔が本人の自己認識の中心に入り込んでくる。
加工された自撮りの中に、現実の自分よりも完成度の高い“もう一人の自分”が生まれる。

それはまるで、自撮りドッペルゲンガーだ。
しかもそのドッペルゲンガーは、ただの偽物ではない。
自分より人気があり、自分より整っていて、自分より承認されている。
そして本人は、その影に追いつこうとする。

美しく見せることが悪いわけではない。
盛ることも、演出することも、表現の一つだと思う。
メイクも衣装も照明も写真も、人間はずっと自分を編集して生きてきた。

ただ、今の加工はあまりにも自然で、あまりにも高性能で、あまりにも日常に溶け込みすぎている。
だからこそ、嘘をついている感覚がないまま、少しずつ別の自分が育っていく。
そしていつか、画面の中の“完成された私”に、現実の私が置いていかれる。
それが「加工自己同一性揺らぎ」であり、「自撮りドッペルゲンガー現象」なのだと思う。

「加工はよくない」というようなことではなく、「加工された自己が、本人より先に社会的実体を持ってしまう」という可能性が非常に興味深い。
そう考えると、僕たちのような評価経済で生きている現代の人間は、自分で自分を演出しているつもりでも、いつの間にか演出した自分に支配されるのではないだろうか。
現代における本質的な自己像は、鏡ではなくフィードバック欄によって作られているのではないか。

それでは、そのように加工された自己像は、どの時点から“表現”ではなく“本人を拘束する人格”になるのか。
この現象に名前をつけてみたい。

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