僕は俳優をやっているが、もちろん観る側としてもよく劇場という少々特殊な空間へ足を運ぶ。そこは、大人たちが数千円から数万円の対価を支払い、数時間のあいだ「ここではないどこか」を信じ込むための、日常から切り離された極めて特別で、かつ極めて脆い「共同幻想」の箱庭である。
ポケットに手を突っ込みたくなるような寒さが身に染みる季節、僕はある舞台を観に出かけた。
舞台は佳境、役者が魂を削るような、針が落ちても聞こえるほどの「間」をとっているような緊張感あふれるシーン。客席全体が息を呑み、空間が張り詰めたその瞬間、静寂を切り裂いて鳴り響くのは、電子の咆哮である。よく聞くお馴染みのデフォルト着信音、あるいは「ブー、ブー」という、地味に座席を伝うバイブレーションの重低音。鳴らした張本人は、暗闇のなかでバッグの底をさらう泥棒さながらの挙動不審に陥り、周囲の観客は一瞬にして「現実」という名の冷水に叩き落とされる。一瞬の不注意が、演者たちが積み上げた集中の場を灰にする、テロリズムの瞬間だ。
彼らを「常識のない不届き者」と一刀両断するのは容易い。だが、それでは構造分析としていささか浅薄ではないか。前提として、現代人にとってスマートフォンとは、もはや身体の一部であり、常時オンがデフォルトの「生活インフラ」である。劇場側が型通りに繰り返す「携帯電話の電源をお切りください」というアナウンスも、今や電車の車内放送と同レベルの、心地よい環境音として聞き流されている可能性も否めない。
しかも、現代の罠は巧妙である。電源を切ったつもりのスマートウォッチが手首で健気に通知を飛ばし、アラーム設定だけは機内モードをすり抜けて自己主張を始める。鳴らした側も、悪意があるわけではない。ただ、ポケットの中に「現実」を忍ばせたまま、虚構の海に飛び込んでしまったというだけの、哀しき現代の被害者なのだ。もちろんここでいう一番の被害者は僕を含めたその他の観客なのだが。ここで僕たちが般若の面で彼らを吊るし上げれば、観劇初心者は怯え、劇場はただの偏屈な愛好家の集会場と化してしまう。
舞台とは、チケットを買えば自動的に再生される動画とは違う。僕たち観客もまた、その空間の静寂や緊張感を構成する「共同制作者」という生業をある意味では背負わされている特殊なエンタメだ。だからこそ、観劇前の「機内モードへの移行」や「アラーム解除」は、単なるマナーではなく、虚構の世界へ入るための「入国手続き」なのだと思う。
では、僕たちはこの「入国手続き」をどう機能させるべきなのだろうか。
ただ「マナーを守れ」と説教を垂れるだけでは、届くべき相手には一生届かない。そもそもそのアナウンスが届いている観客はすでに携帯の電源に手をかけているだろうし、真の対象相手には思考停止の「お願い」は現代のノイズによってかき消されているのだから。
舞台を作る側である運営や僕たち演者にも、まだやれることはあるはずだ。
例えば、開演前のアナウンスをただの事務連絡から、観客を共犯者に仕立て上げるための「儀式」へと昇華させること。「携帯電話の電源をお切りください」という無味乾燥な定型句ではなく、「これから始まる数時間、現実世界のあらゆる通知からあなた自身を解放し、私たちと共にこの空間を創り上げてください。そのための第一歩として、端末を深い眠りにつかせ、アラームやスマートウォッチの通知も断ち切ってください」と、付加価値を付与したり、言葉の設計そのものを変える必要がある。
「ルールだから」ではなく「あなたが必要だから」と伝えるのだ。
さらに言えば、万が一あの忌まわしい電子の咆哮が鳴り響いてしまった時の「事後対応」すら、あらかじめデザインしておくべきなのかもしれない。
鳴らしてしまった本人がパニックになり、暗闇でカバンをかき回して長時間音を垂れ流すくらいなら、「もし鳴ってしまったら、恥じらうことなく一秒でも早く止めてください。そして、すぐに物語へ戻ってきてください」とあらかじめ逃げ道を示しておく。それは彼らへの優しさであると同時に、ひいては作品の被害を最小限に食い止めるための防衛策にもなる。
舞台というメディアは、録画や配信と違って、あまりにも不器用で、ひどく非効率だ。一度失われた時間は二度と巻き戻せない。
しかし、数百人の他人が同じ空間に集い、一つの静寂を共有し、同じタイミングで息を呑む。あの奇跡のような同期体験は、現実世界との接続が完全に切断されたオフラインの空間でしか決して生み出せない。
次にあなたが劇場の扉を開けるとき。
どうか、ポケットの中の「現実」を一時停止する勇気を能動的に持ってほしい。それは誰かに強制される息苦しいマナーなどではなく、あなた自身が最高の物語を体験するための儀式であり、あなたと僕たちとで一番最初に行われる共同作業なのだから。




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