なぜSNSでは『極端な暴論』ばかりが残るのか

並んだ人々のシルエット 日記・考えごと

窓の外は、暴力的なまでの快晴である。
あまりに天気が良いものだから、洗濯物を干すという「家事」の名を借りた神聖な儀式を済ませ、僕は缶コーヒーを片手にソファへと沈み込んだ。平和な昼下がりだ。このまま猫のように微睡んでいればいいものを、現代人の業とでも言うべきか、僕は手元の黒い板、スマートフォンを起動し、以前青い鳥が飛び交っていた、あの喧噪の森へと足を踏み入れている。

画面の中では、今日も今日とて「正義の殴り合い」が開催されている。
実に活気がある。いや、殺気があると言うべきか。
そこでは、配慮や文脈といったまどろっこしい包装紙をあえて捨て去り、中身の石ころを剥き出しにしたような言葉が飛び交っている。
「〇〇は悪だ」「××する奴は終わっている」
そんな、主語が肥大化したビビッドな暴言ほど、凄まじい勢いで拡散され、賞賛とも野次ともつかない反応を集めている。まるで、声のデシベルが高い人間だけがマイクを握れるカラオケ大会のようだ。

これを見て、素直な人間はこう思うかもしれない。「世の中はこんなにも過激な意見で溢れているのか」と。
だが、僕はここで冷静に、冷たいコーヒーを啜りながらツッコミを入れたい。
短絡的過ぎやしないか、と。

画面上の勢力図が極端に見えるのは、別に人類の知性が退化して戦闘民族になったからではない。単純に、まともな神経をした「大多数の常識人」が、その場から静かに撤退しているだけなのだ。

想像してみてほしい。
道端で、顔を真っ赤にして何事かを怒鳴り散らしている人がいたとする。
そこで「失礼ですが、あなたの論理には飛躍がありますよ」と丁寧に話しかけにいく人間が、果たしてどれだけいるだろうか。
大抵の人は、関わり合いになることのコストとリスクを瞬時に計算し、目を合わせないようにして足早に通り過ぎるはずだ。これを「逃げ」と呼ぶ人もいるかもしれないが、僕はこれを「高度な危機管理能力の発露」と呼びたい。

SNS上で沈黙を守っている人々は、何も意見がないわけではない。彼らはただ、泥仕合に巻き込まれて精神という名の衣服を汚されることを嫌い、「関わらない」という最強のカードを切っているに過ぎないのだ。
かつては「沈黙は金」などと言われたが、現代のSNSにおいては「沈黙はシェルター」である。

つまり、タイムラインで幅を利かせているあの「強い言葉」たちは、民意の代表などではない。あれは、冷静な人々が立ち去った後の空き地で、最後まで残って大騒ぎをしている人々の残響なのだ。エンゲージメントという数値は、声の大きさを示すバロメーターにはなり得ても、正しさの証明書にはなり得ない。

そう結論づけると、僕はスマホを裏返し、机の上に置く。
画面の中の嵐がどうなろうと、僕の半径5メートルにある平穏とは無関係だ。
まあ、そんなことをわざわざ文章にしている時点で、僕もまた「書く」という業から逃れられない、同じ穴の狢なのかもしれないが。
さて、そろそろ洗濯物を取り込まなくては。これもまた、僕の生活における重大な意思決定なのである。

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