吐いて、吸う
吸って。
吐いて。
入れて。
出して。
自分の中に経験を積み重ねるってことは、その事柄において息を吸って吐くように、当たり前にできるように余裕を持つことである。
みんなあたりまえのように息をしているけど、意識をして呼吸をしているヒトはいない。
時に、貯めすぎた経験の重たさから身動きがとりずらくなるならば、ボクはいつまでも吸収する姿勢を保っていたい。
吸って。
吐いて。
入れて。
出して。
自分の中に経験を積み重ねるってことは、その事柄において息を吸って吐くように、当たり前にできるように余裕を持つことである。
みんなあたりまえのように息をしているけど、意識をして呼吸をしているヒトはいない。
時に、貯めすぎた経験の重たさから身動きがとりずらくなるならば、ボクはいつまでも吸収する姿勢を保っていたい。
薬ってのは、
ここぞっていうときに飲むから
バシッと効果を得られるんだよ。
だから
あれこれと
しょっちゅう飲んでる奴には
あまり効き目がない。
遅刻の言い訳のようにね。
車両点検で遅延とか。完全に自爆じゃないすか!!
「あまりストレスを溜めるなよ」と誰もが言われることだけど。
ストレスを溜めないようにすることがストレスになる。
今の世の中はそんな社会構造。
あなたのそれは、無責任な「ガンバレ」と何が違うのだろう。
最近は、だいたい食後に缶コーヒーを飲んでるんですよボク。
今日は食後に薬を飲もうと思ってたんですが、手元に飲み物がなくて、自販機に買いに行くことにしたんですよ。
できるだけコーヒーとかお茶じゃないほうがいいだろうと思って給湯室で水を持ってくることにしたんですけど・・・、少し考えたボクは、結局給湯室には行かず、そのまま自販機で買った缶コーヒーを口に含んで薬を飲みました。
たとえ水で飲んだとしても少ししたらコーヒーが同じ場所に入ってくるんですもの。
それ以前に、ボクのおなかの中は先客のとんこつスープですでにいっぱい。
めまぐるしく季節が変わっていくのを、ふと見た満月だったり、気温の変化だったりでただ漠然と時間の流れに身を任せていることに怖さを感じることがある。
夜空を見上げるには、夜空と認識できる明るさが必要だったり。
照らされて初めて自分の位置を客観的に感じれたり。
空があるのは自分が地にいるということを認識しているから。
対象がないと見失ってしまう。
それが遅くても早くても
一番の問題点は、
問題点が見つからないということ。
だんだんと日常生活のリズムに戻ってきて、少しずつペースを確認している自分がいる。
帰宅時間と、起床時間。
会う人たちとのコミュニケーション形態。
いつもカバンの中身を占有していた、台本とジャージのスペースがまだポカンと空いている。満員電車には乗りやすい。
テーピングとシップ。
公演中にできたかさぶたが痒くてしょうがない。
治りかけが一番気になるもんだね。
関与したくないけれど、そうも言ってられないし。
ほとんどの問題はそういいながら解決していくんだけど、自分が立っている観測地点によってものの動きが変わって見える。
自身に対してはとてつもなくややこしいくせに、他人が外から見るぶんにはなんら問題なく見えるというやっかいな外部要因のせめぎ合い。
これは・・・、目に見えないものに抗う必要があるな。
しかしこれ、上に放り投げたボールを目を閉じてキャッチするようなもので・・・、自分次第でハードルを自由に変えてしまえるという点が、一番たちが悪い。
後先考えてうじうじやってるくらいなら
今の今まで溜めてきたソレを
思い切り吐き出せばいい!!
終わったあとに残した余力の確認をして、
いったい誰が得するっていうんだ!!
昨日からあるイベントのMCをしていまして。
時間的に拘束時間が多い仕事なので、普段の事が出来ません。
賞味期限が過ぎていく・・・。
賞味期限ってのはそれ自体過ぎることよりも、過ぎたあとの対処の方が大変だ。
あまり考えないまま日々が過ぎていくのはある意味幸せな環境なのかもしれない。
それで問題が出なければ、だが。
上がって下がってまた上がる。
リアルにそんな状況を体験している最近の生活。
大事なのは下がったときの考え方。なんにでも言えることだが、経験則は非常に大事だ。これを"理解している"のと"実行できている"のとでは大きな違いがあると思う。
たとえそれが失敗だとしても、それは自分にとっての知識という利益をもたらしてくれる経験則となること。
一番怖いのは、考えるのをやめてしまうことであって、それは思考停止の罠に落ちいるということに他ならない。
大事なのは失敗を体験したときの自分の考え方が「なぜ出来ないのか」ではなく、「どうしたら出来るようになるのか」を考える方がよっぽど建設的であることに気づくこと。
そして、同じ体験をしても成長に差が出るのはその人の資質の問題ではないと、一刻もはやく他人のせいにするのをやめることだ。
目薬をさすために上を向くと、普段は見ることがない天井が目に入ってくる。
違った風景が見える。
そこに"ある"、ものを見るということは物事の側面しか見えていないということ。
とらわれないで頭の中で回転させてみることだ。
天井の向こう側を想像しながら目に入った液体がこぼれないように目を閉じて、天井を見上げている自分を真下から眺められるくらい客観的な視点を持ちたい。
本当に人を出し抜くのがうまいヤツは、「アイツは出し抜くのがうまい」と思われないヤツ。
一つのことに意識を集中させていると、その他の部分は排他的に処理されていることになるが、それではノイズやら揺らぎやらが入る余地は全くない。
それはつまり、ワクの中で動くロボットである。
その域を出ない。
はみ出せる余裕がない。
見えてるけど届かない。
うろ覚えの漢字みたいに、その時に直面した場合にのみ、自分の足りない部分を痛感するしかないのだから、ラインを引いては自分を守る術だけ上達していくことに慣れてしまっているのもどうかと思う。
積み上げていくだけではなく、壊して再構築する。
そこに成長がなければ、所詮自分はただのロボットでしかない。
ない。
役者 (自分)に与えられた"制限"を最大限に使う (利用する)。
その中で、第3者 (お客さん)に伝えたいことを"自由"に表現する。
やりたい芝居だけをやっているようじゃ、
まだまだ。
やりたい芝居しかできないようじゃ、
だめだめ。
だからこそ、今!! ああ、いい意味ではみ出していきてぇなあ。後から「アレをこうしたからよかったんですよね、今考えれば」って言えるくらい、いい意味で言ったモン勝ちの成功者になりたし。
それって要するにそのジャンルのピラミッドで頂点に近い位置に達すると、周りの競争者がどんどん減っていくから注目されるってことですよね。下の階層でくすぶっていると大多数によって埋もれてしまうよ、と。
結果、バランス型は絶対的に不利であって、器用貧乏は泣きを見る。欠かせない人間にはなれるが唯一の人間にはなりえない。
ではバランス型を極めるとどうなるのか。
僕の記憶ではこれを本当の意味で極めた人間はいないし、もしいたとしても常に空気を読むのに長けた人物であることは想像に難しくない。周りを気にして自分で空気を作ることはできない人物。
いいものはいい。
それは真理であると同時にその見えないパラメーターに頼ろうとする人間の心理でもあるだろうなと思う。そうに違いない。ピラミッドの頂点から見える風景はずっと同じはず。
もはや自分の手の及ぶ範囲ではない場合、事の結果を待つだけの時間はひどく残酷なものだ。
となれば、もはや何をしたって結果は変わらないのだから、せめて後悔だけはしないように心を整える余裕が欲しい。
何よりも、そう考えていたほうが気が楽だもの。
自分の運命を知った魚の場合、水槽で泳ぎまわっているのも、まな板の上に運ばれるのも、どちらも生きた心地はしない。"どちらかといえば"気が楽な方で運命を待ちたがるだけであって。
ボクはレジで計329円の支払いを、100円玉3枚と10円玉3枚、5円玉1枚、そして1円玉を3枚出してから5円玉と1円玉を引っ込めるやつなんですね。
店員にしてみれば「何してんだコイツ」状態ですけど (自分でもそう思う)、でも40円出しとけば大丈夫だろうと、踏み込んでいくんですよねまず、ボクは。
わかりづらいかもしれないけど、こういう感覚。これってけっこう、その人物の本質に根付いた根本的な部分なのかもしれないとコンビニのレジでレシートをもらいながら考えるんですよ。
思考浮遊状態。
店員が会計をして商品とお釣りを僕に渡すまでの数秒間のエンペラータイム。 空白の数秒間ですが、あらゆる駆け引きが行われ、互いに思考が交錯してますよね。
ああ、そこで敢えて2,000円札を出すぐらいの余裕ある大人の対応をしてみたいボクは。
役者として活動している以外の時間で、営業・交渉の仕事をしているボクは、ありがたいことに人と接する機会が限りなく多いのです。
そこで自然と身についていたのは、"人を見る"というよりも"人を見分ける"能力のほうが重要だということでした。感覚的なことですけど。さらにはそれが仕事の成果=給料に直結してくるような仕事なので、なおさら個人の能力が求められる職業だと思う。キツイ人にはかなりキツイ。
ただし、営業に限ったことではないけれど、人生の中で「営業」のスキルを応用できる場面はあまりにも多いとも言わざるを得ない。
最近、まがいなりにも人を管理する立場になっていまして・・・よく考えるんですけど、できる人間の"効率のよさ"っていうのは物事に対してのリアクションのうまさだと思う。
自分の考えていることや思っていることをうまく変換して出力できる人は本当に仕事ができる。しかも、相手にあわせて変換形式を変えられる点がすばらしい。
もちろん、大前提として元々に本人が持ち合わせてる知識量がものをいうのはいうまでもないけど、「できる人」の代名詞である余裕があるように見える様は、実は、周りの人たちに余裕があるように振舞える人間のことなんじゃなかろうか。
時間はあるかと聞かれて"あるといえばある、ないといえばない"というような状況で、
「時間は作るもんなんだよバカヤロウッ!」
と、言われたときのことを思い出したボクに時間はあるんでしょうか。
"親子丼"ていうネーミング。初めて考えた人は「うまいこと言った!」と、さぞほくそ笑んだことでしょう。
鳥の親の肉とその子である卵を同時に食材として使用するという、まさに外道ともいえるこのメニューをなんとも穏やかなネーミングで包み隠してしまうという点が、天才的と言わざるを得ない。
物はいいようなのね。
いい様に解釈してもらうために。
ある程度立場が上の人というのは、下の立場の人に対して何かを言うときに自分のことを"タナ"というものに上げて話しをしなければいけないそうです。
確かに一理あるし、とても合理的です。それが仕事だと言われれば、その通りですと反対しようが無い理論ともいえます。
逆に言えば「納得せざるをえない」という時点でボクも下の立場という意味でこの説明を受けているわけですね。
ボクも今回の変化である程度、いわゆる"上の立場"の人間になるそうです。
ボクの場合、このタナそのものをどうにか下げて対応できないものかと考えます。
下とか上じゃなくて、同じフィールドを共有して接したほうがね、同じ位置から見えることもあるわけだし、今の自分には上下考えるにはまだまだ、おこがましいと思ってしまう。
なんだかちょっとした変化が訪れているようです。
新しいポジションはどうやら現在よりは保守的な位置。
ああ、それは自分にとっていいのだろうか、とちょっと迷いながらもコレを書いてるときはすでに受けてしまった話なんだから、いまさらウダウダ言ってたってしょうがないんだけど。人によっては喜んで飛びつく話なわけだし。
ただ、ボクはもっとチャレンジブルで挑戦的な位置に自分を置いていかないと生きていけないような人間だと思う。
今までも知らず知らずのうちにそんな道を歩いてきたわけだし、保守的な位置というのはいわゆる泳ぐのをやめてしまったサメのような。なんだか息苦しい感じなのであります。
身体がただ、沈んでいくような生き方は避けてきたい。
これからもずっと。
とにかく、この新しい変化が自分にとってどのような化学変化をもたらすのか、もうちょっと様子を見ながら少し視野を広くしてみることにします。
明日から12月が始まります。
今月は動いた週とそうでなかった週の差が大きかったなあ。
前半はから中盤にかけては物事が一気に加速して、後半は静まり返ったかのように流れが止まった。
これが"タメ"ならいいんだけどね。
そう思うと普段から自分は、そういうことが往々としてある気がする。
しかもそれが、今のように意識してない時だけどもね。
"去年"になる前に、今年のことを全力で考えよう。
真っ白な雪を踏み荒らす前に、今いる場所の足跡をちまちま埋めていく作業もいいじゃないか。
そこにあるモノは在る。
そこにないモノは無い。
"そこにないモノ"と考える意識が存在の証明であるとすると、
"そこにあるモノ"と意識が認識しなければ、
そこに在るモノは存在自体が無いモノになる道理。
"ココロ"といわれる意識を生み出している脳が存在している以上、
細胞の集合体である脳は"モノ"である。
つまり、
今、空に見えている星がキレイなのはボクが光を認識しているから。
星を見てるボクがいなければ、星はただ光を発しているだけ。
だから、冬が寒いのも、地球が丸いのも、ボクが役者をやっているのも、いつの間にやらボクの名前がウィキペディアに載ってるのも、みんながいるから。
ありがとうございます。
だんだんと風が強くなってきて、周囲の流れに巻き込まれまいと少しカラダがこわばってきた。同時進行で進む物事が多くて、一歩一歩の距離感が曖昧になってくる。一方では他者との間合いも自分の意識を引きずる要因になっている。自分の時針が狂い始めている穏やかな兆候が・・・ひどく恐い。
そんなものは全て、停止して初めて気づくことであって、あたりまえだが気づいた頃にはたいてい既に解決済みだ。
先人は、「自分のやるべきことや今いる状況を客観的にを把握するためには、物事に"優先順位"をつけろ」という。
ただ、"優先する順位"と"モチベーションの順位"との間に矛盾が生じているボクはどうすればいいのだろう。
笑ったときの目。
困るとすぐに黙りこむ。
じっと見つめてくるときの表情。
重たくて分厚すぎるマフラー。
照れると下を向くしぐさ。
見透かされるのを嫌がる頑固でわかりやすい性格。
ウソをつくのが苦手。
安心するとすぐに眠くなる。
第三者の前では敬語になる。
電話の声でそのときの気分がわかる。
今にも転びそうな小走り。
ものすごい負けず嫌い。
物事のタイミングにこだわる性格は、自信が無いんじゃなくて後悔したくないと思っているから。
逃げてたんじゃなくて、進むことを保留にしておいただけ。
だから、たとえこの決断が間違っていても、後悔だけは絶対にしないと断言できる。
ありがとう、見ててくれて。
相変わらず、これからもよろしくお願いします。
アイ変わらず、これからもやっていくつもりです。
真実を語るのは実にむずかしい。しかし、だからといって嘘をつく必要はない。
嘘をつくのはもっとむずかしいのだから。
人と話していて、ちょっとした話の中に駆け引きがある会話が好きだ。実があるから。反対に、実の無い会話が苦痛でしょうがない人がいる。そんなときに人は"演技"する (している)んだと思う。
これは性格なのかもしれないけれど、僕はやたらとモノゴトの裏を読みたがる。
演技しているのが分かるということは、その人のクセが読めるということ。その人のクセから裏の真意を見抜くには、芝居で人を魅了することよりもはるかに容易だ。
ただ、演じている側は表に出す真意の他にもさらに隠している部分を持っていて、それを観ている客や、演出家、さらには共演者に対してもしばしば嘘をつく場面がある。それを駆け引きというのだが、"芝居のクセ"というのは、そこから出てきてしまった本人の本当の真意なのでは、とも思える。
もっとも尊敬している一人である役者の方が、本日25回目の誕生日をむかえたボクに言ってくれた一言です。
「100歳になるまで芝居をしていてください」
続けることが大事。これからも、留まらずに真っ直ぐに進んで行きたいと思っていますが、それを形成しているのは相対的な道標。評価であったり、競争であったり、尊敬や経験を得てそれが自分自身になっていくんだと思うと、25年という月日はまだまだ。
まだまだ、まだまだ、あまりにも短い。
ほんの20年前のボクは、大きくなれば何でもできると思っていました。
正解。大きくなって、それは正しいことが分かりました。なんでもできるしなんにでもなれる。ただ、大きくなって分かったのは、それを成すためには何が必要なのかを理解することができたことです。その道は容易なのか困難なのか、自分で選ぶことができることを知りました。
何を持って"成す"とするのかは今は漠然としていて分かりませんが、ボクが尊敬している人と同じくらいの歳になったら少しは見えてくるものもあるのかなと、期待しながら大きくなっていきたいです。
そして、100歳になったときには、役作りで悩んでいたい。
ちなみに、感動していて言葉がなかったボクからとっさに出た返事は「ボクが100歳になったらまた共演してください」でした。胸がいっぱいで、とにかく何か言わないと別の何かが出てきそうで危なかったのは内緒です。
マグロが止まることは"=死"を意味します。呼吸するために一生泳ぎ続けます。
劇団ZAPPAの稽古は大変なんです。
朝からの営業のバイト終わらせてから30分くらいかけて船堀の稽古場にいくんですよ。稽古場がある"船堀駅"ってのは新宿から都営新宿線 (京王線からつながってるやつ)で30分くらい乗っていると着く本八幡のちょっと手前という場所でして、お客さんはどんどん降りていくので、たいていいつかは座れます。今日は「ワンピース」とかの単行本の発売日だから行きに買っておいて、帰りの2時間の電車内で読んだりするんですよ。
22時頃に稽古が終わって帰ると、いつも終電くらいになるし早くても終電1、2本前にしか乗れないという制限時間付きの毎日。マリオか! 船堀駅を23:09発の新宿行きに乗らないとアウトです。大変です。
でも、稽古が楽しすぎてテンション上がってるとそんなことどうでも良くなっちゃうから困る。いろんな意味で他のことがおいてけぼりになってないか注意しなくては、と自分に言い聞かせてみます。楽しんでいるだけでいいのか、と。ただ、最近はほんとに充実していて、稽古が無いときよりも活き活きしてると感じます。
今回、劇団ZAPPAへの3回目の参加ということもあってか、いつも以上にいいキャストに囲まれてやや調子に乗っている気がしてならない。そこだけ、「自重せねば」なんて終電に一人揺られているとそんなことを考えてしまう小心者な僕。地元の駅に着くまでに結論は、出ない。
別に心肺機能は関係ないが、人間である以上"成長が止まる"ということは "=死ぬ"ことと同意義。それだったら、せいぜい楽しみながら僕は死にたいものだ。
劇団ZAPPAの稽古は大変だ。
いい意味で大変な毎日。少しづつ変わっていく毎日の中で、僕が止まるまで考え続けていたいのは、「昨日よりもいい今日を」。小変よりは大変のほうがずっといい。
契約をしてるわけでも約束をしているわけでもない。一言、「やめる」といえばやめられる関係を続けてきて思ったのは、「続ける」のはとても簡単だということ。やめる方がよっぽど大変だから。気づいてしまうと話しはもっと単純になってきて、あとは堂々巡りを繰り返す自己言及的な命題生産工場の出来上がりだ。
要は変化に恐れて毎日コンビニで同じメニューを買うようなそんな関係をだらだらと、ただ淡々と時間を数えることに重きを置いていることになんら代わり無い。
だけど、やめるのが大変だから続けてるわけじゃない。
僕が始まってもうすぐ25年目の今月は、僕らが始まってまだ7回目の9月。
もともとそこにあったものじゃないのに、1度でも在ることに慣れてしまうと期待して、どうしてそんなにも浮き沈むのか。
もともとそこに求めていたものとはどんどん逸れていっているのに気づきながらも、修正できずにだんだんと緩やかに傾いていく平行線を眺めながら、雲の向こうにのぞく月明かりをただぼんやりと感じている。
そんな人間いないのだろうな、自分も含めて。
薄れていく過去の中で、鮮明に覚えているのは身体のまわりを付きまとう重たくのしかかるような空気と、乾いたため息。線と点。白と黒。
そう考えはじめると、なんでもそういう補正でモノを見始めちまう。質か量か。妥協点をどこに置くかで物事の本質すらもボヤけているのに、まるでピントが合わないままシャッターを押し続けるさまはギャンブルのようだ。
同じ物を見ているはずなのに、自分の目が変わっていることに気付けないまま、ひたすら隣のケーキを目で食べて、てっぺんの見えない階段を1段飛ばしで登ってく。
もともと、ケーキはそんなに好きじゃない。